老いの何だか切ない日々のポエム画廊喫茶

朝起きて今日一日が始まるコーヒーを淹れるときめき。残りの人生、毎日全力投球。

~回想~京都での生活②


銀河テレビ小説「黄色い涙」を見ることだけが楽しみだった。
若者四人の出演者は、下條アトムと森本レオしか覚えていない。
岸部シローも出てたようだが、思い出せない。


終ればもう10時で、自分の部屋に戻って寝るしかなかった。
起きていても、息の詰まりそうなこの部屋が憂鬱でならなかった。
仕事は朝9時から昼の1時間の休憩をはさんで、夕方6時までだった。
朝は、掃除があるので8時半には入るようにしていた。
二階の蝋を扱う三畳ほどの部屋を入れて、二十畳ほどの工房だった。
カーペット敷の上に、弟子5人の机と先生の机が1つ。
机は、座卓の真ん中に四角の穴が開けられたような形にしてある。
下に電熱コンロを置いてて、それで乾かしながら色挿しをして行く。
下絵の机は普段は色挿すことはしないので、ガラス板でその穴を塞いでいる。
下からライトを当てて図案を写す時のために、穴は大き目に横長にしてある。


僕は下絵を修行することとなった。
何もわからないから、全てが一からだ。
いきなりは無理なので、初めは模造紙に筆使いの練習をした。
筆を持つなんて、学校の習字の時間以来だった。
青花というものを水で浸して、それを筆先につけて描いて行く。
青花は、露草の青い部分を絞ったものを和紙に染み込ませたものだ。
それを数センチほど小さく切って小皿に置き、水の量で濃さを調節する。
薄すぎては滲みやすいし、濃すぎては描きづらく、生地に残ってしまう。
胡坐だと手が遠くへ行かないし、腰に良くない。
それで、正座をして描くのだけど、座布団をするのでじきに慣れた。
これは色を挿す人も同じでみんな正座で仕事した。
時々立ち上がって足の痺れを治した。


着物の模様の多くは花が多いので、普段からスケッチをすることを勧められた。
それで、仕事から帰ってから、そこらで抜いて来た草花などから始めた。
日曜日はスケッチブックを持って植物園に出かけた。
京都の植物園は広くて、帰る時、出口を迷うことが度々だった。
市電の廃止が決まった頃だったけど、まだ植物園へは円町から乗って行くことが出来た。


下宿に戻ると、窓のない部屋が暗くて憂鬱で、乏しいお金の中から、息抜きに喫茶店でボーっと過ごした。
年寄り夫婦の大家がまた愛想が悪くて、いつもまるで敵対視するような目をしていた。
先輩は、一度夜に帰って来たら、鍵を閉められていて、電信柱を伝って窓から入ったことがあると言っていた。
遅い時間でもないのにとぼやいていた。
これまでに田舎にいた頃には出会ったことのない、陰気な顔したこの大家の対応には迷った。


僕は大家の不愛想には耐えても、窓のない部屋での生活には、ついに耐えきれなくなった。
それで先生に、窓のない辛い気持ちを打ち明けた。
すると先生が、先輩にも暮らしぶりを尋ねて様子を聞いていた。
そして、ついに別な部屋を探してくれることになった。
もう年末だったので年が明けてからだったと思う。
妙心寺の近くの四畳半一間、トイレ炊事は共同のアパート「〇△荘」へ越すことになった。
二階建て一棟、上下で16部屋あった。それが敷地にもう一棟あった。
住人のほとんどが近くの大学の学生のようであった。
それで生活時間も違うから住人との付き合いは無かった。真向いの茨木出身のちょっと暗い4回生がたまに話しかけて来るだけだった。


僕の部屋は二階の廊下の突き当り。南側の端で、窓を開ければ射す日差しに、ようやく落ち着いて暮らすことが出来るようになった。